皆さんこんにちは。塾長のFです。
今日は自己紹介をしたいと思います。
無為な大学生活
何の計画も目標もなく三流大学に入学したは良いけども、モチベーションが続くわけもなく大学に行くといってはパチンコ屋で1日中座っているような日々を過ごしていました。
当然のように留年しました。
大学辞めて働くつもりだったのですが、親に説得されて2年留年したけど何とか卒業することが出来ました。
最初の仕事
親戚のコネで従業員30名位の小さい商社に就職しました。配属は営業部です。
中途の即戦力ばかりを採用する会社なので私のような新卒を採用したことがなかったようです。
そのため新人を育てるといった環境がほぼなく全て先輩や上司の見よう見まねで対応していました。
4月1日に入社したのですが、その日の午前10時には顧客の会社に上司に同行し、名刺交換すらまともに出来なかったことをよく覚えています。
そのときはあまり感じてなかったのですが、新人研修やマニュアルってすごい重要だと後になって感じましたね。
仕事内容はいわゆるルート販売というやつで、決まった顧客を定期的に訪問し注文を受ける営業です。
毎月ノルマが決まっていてそれを達成する為の受注予定を出す会議が辛かったです。ネタが無くて…。
それでも何とか人並みに受注金額を達成することが出来るようになってきた頃、仕事の労力と達成感とが釣り合わなくなってきて急速に営業職に対するモチベーションが低下していきました。
遂に会社を辞める決意をしました。入社から10年経っていました。
人生の転換期
自分に会う職業は何だろう?
ああでもない、こうでもないと思う毎日。
新しい事を始めようとするときのワクワク感と不安。
やっぱり心を占めていたのは
「誰かに直接褒めてもらいたい。」
「感謝されたい。」
「ありがとうって言ってほしい。」という思いでした。
それにはヒトの役に立つ仕事をしなければ。
そこで選んだのが東洋医学の世界でした。
10年ぶりの学生生活+修行生活
鍼灸の専門学校の夜間部に通うことになり、同時に鍼灸整骨院にアルバイトで働くことになりました。
久しぶりの学生生活が本当に楽しかったですね。
「自分の将来のため勉強」をしたことが初めてで、吸収率が全然違います。
覚える単語は多かったけど、脳が活性化されていく実感がありました。
世代を超えた仲間も出来て飲み会もよくやりました。朝までカラオケも。
鍼灸整骨院でのバイトは仕事というより「弟子入り」ですね。
今では考えられないことですが、給料は月曜から土曜まで午前8時から12時まで働いて月給5万円。
時給にすると600円ぐらい…。
でも仕事というより臨床の勉強しにいってる感覚だったので気になりませんでした。
無事国家試験も合格し、同じ鍼灸整骨院で鍼灸師として就職しました。
鍼灸師としての3年間
初任給は20万円。
当時の鍼灸師の相場としては普通で、30代半ばにしては低いぐらいですね。
仕事内容は鍼+マッサージで、患者の多くは腰痛、五十肩、慢性の関節炎でした。
仕事を続けていくなかで、整骨院によく来る急性期の患者に対しても施術したいと感じるようになり、柔道整復師の免許取得を志しました。
40歳になっていました。
再びの学生生活
今度は昼間部です。
朝8時から12時まで仕事
13時から16時まで学校
17時から20時まで仕事
さらに週4で21時から深夜2時までラーメン屋でアルバイトw
睡眠時間が平均3時間半ぐらいでした。
さすがにきつかったですね。
学校では鍼灸師の免許を持っていたこともあり、同級生に勉強を教える機会が自然と増えました。
日曜日に近くの公民館を借りて、朝から夕方まで私塾を開いてました。ボランティアで。
3年生のときには2週間に1回。
資料作りに追われる毎日でしたが充実した日々で、またそのときの資料が現在でも役に立っています。
開業か教員か
鍼灸師と柔整師のダブル免許を取得し、鍼灸整骨院内の仕事はほぼすべて任されるようになりました。
給料は28万円。なんとなくこれ以上は上がらないだろうなと肌で感じていました。
再び将来のビジョンを考えるようになり、独立して開業するか教員免許を取って教員の道を行くかを考えました。
でも2度の専門学校生活のなかで、人に勉強を教えるのは天職だと自分では思っていたので教員の道をとりました。
専門学校就職から現在へ
40代後半での教員デビューですが、この道を選んで本当に良かったと思っています。
学生達の国試の合否は自分の事よりも嬉しさも悔しさも数十倍。
3年生の担任となり、国家試験担当として5年間。
そのノウハウを少しでも多くの人に役立ってもらえたら思いブログを立ち上げました。
これからじゃんじゃん記事を投稿していきますので一緒に勉強していきましょう。
よろしくお願いします。
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